「いつか誰かが助けてくれる」と信じることは、甘えなのだろうか。
これはとても繊細で、難しい問いだ。
世の中には、「人に頼るな」「自分で何とかしろ」といった言葉があふれている。
それはある意味、正しい。
誰かに期待ばかりして、何もしないで待っているだけでは、物事は進まない。
現実はそれほど甘くはないし、救いの手はいつも差し伸べられるとは限らないからだ。
だからこそ、「自分でなんとかしよう」という気持ちはとても大切だと思う。
小さくてもいい、自分から動いてみること。
それが人生の舵を握る第一歩になるのかもしれない。
けれど一方で、人はひとりでは生きていけない。
どんなに強そうに見える人でも、誰かの優しさに救われたことがきっとあるはずだ。
つらいとき「誰かが気づいてくれないかな」と心のどこかで願うのは、自然なことだと思う。
助けを求めることを「甘え」と切り捨ててしまうのは、少しだけ不親切かもしれない。
信じて待つことにも、勇気がいる。
それは「何もしないこと」ではなく、「信じることを選ぶ」という行動なのだと思う。
もちろん、「ただ待つ」ことと、「信じて踏み出す」ことは違う。
待つだけでは、何も変わらないかもしれない。
でも、「きっと誰かが自分を見つけてくれる」と願える人は、
きっといつか誰かを見つけてあげられる人でもあるのではないだろうか。
「助けて」と言えることは、決して弱さではない。
それは、自分の限界を知っているという強さであり、
誰かを信じるという優しさだ。
そして何より、「助けて」と口にできる人は、
他人の痛みにも敏感で、優しい心を持っているのだと思う。
頼ることを知っている人は、きっと頼られたときも、決して突き放したりはしないから。
「誰かが助けてくれるかもしれない」
そう思うことは、
人を信じる力を、自分の中に残しているということ。
そしてその気持ちは、いつか誰かの支えとなる、大切な光なのだ。
だから、きっと信じることをは、恥じることではない。
誰かにすがることも、弱さだと思う必要はない。
それを知っている人は、きっと誰よりも、「やさしさ」の意味を知っている人なのだろう。
こんなことを書いている自分も、
いつか誰かの「助けて」に気づける、そんな優しさを持った人になれるだろうか。
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