子供のころ、将来の夢は何か?と聞かれて答えられたのに、いつからか夢がわからなくなった。今回はそんな話。
夢を見失う感覚とその葛藤
夢は何か?と聞かれて、すぐに答えられる人はどれくらいいるだろう。「これだ」と言える人もいれば、「正直よく分からない」と思う人もいると思う。かく言う自分も、後者のほうに近い。
子供時代には、よく「将来の夢は?」と聞かれることが多い。そんなとき、誰しも何かしらの夢を口にしていたはずだ。スポーツ選手、ケーキ屋さん、宇宙飛行士。 でも、大人になるにつれて、夢という言葉が少しずつ遠くなっていった気がする。現実とか、お金とか、安定とか、そういうことを考えるようになると、夢の話はだんだんと霞んで語れなくなってくる。
「夢がないといけない」わけではないと思う。でも、気が付くと自分の内側にある「こうなりたい」「これをやってみたい」という小さな気持ちすら、うまく見えなくなっている。そんなとき、自分はいったい何を目指しているのか、日々何処へ向かっているのか、とふと立ち止まってしまう。
まずはやってみること。行動が大切
最近、空き部屋を改装して、民泊を始めようかと考えている。最初は「せっかく空いてるし、きれいにして活用しようか」という、どちらかというと軽い気持ちだった。けれど、玄関前の庭を整えたり、和モダンでシンプルな内装をイメージしたりするうちに、構想を練る時間なども楽しく感じられるようになってきた。
さらに今は、本業の転職活動も少しずつ始めている。新しい環境に身を置いてみることや、新たなことに挑戦する中に、自分の夢のヒントが隠れているような気がしているからだ。どれだけ頭の中で考えても、「やってみないとわからないこと」は案外多い。
「いつかやろう」と思っていたら、たぶんその“いつか”はずっと来ない。少しずつでも動いてみることで、「やってみてよかった」と思える未来が増えていくかもしれない。今はまだ明確な夢なんて言えなくても、それでもいいと思う。
夢は探すものというより、育っていくもの
やりたいことは、やりたいと思ったときが一番のタイミングなのかもしれない。完璧なタイミングなんて待っていたら、たぶん何も始められない。「夢を探す」というと、どこかに正解があるように聞こえるけれど、実際は、探しているうちに「夢になっていくもの」なのかもしれない。誰かに笑われるようなことでも、自分が少しでも惹かれるなら、そっちのほうに一歩踏み出してみる価値はあるはずだ。

最後に
夢は、いつかどこかで突然見つかるものではなくて、日々の中で、少しずつ育っていくものなのかもしれない。大切なのは、完璧な夢を描くことではなく、「今の自分が少しでも惹かれるもの」に正直になってみること。
誰かに話すほど立派なことでなくても、小さな違和感やちょっとした興味に目を向けてみる。そこから、自分だけの夢が、静かに始まっていくのではないだろうか。
皆さんは今、どんなことに心が動きますか?
それが、夢の入り口かもしれません。
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